514回 (2014.12.20

遊行上人と天徳寺

田中 弘道 (一遍会 理事)

 

一 河野氏と多幸山天徳寺の氏寺化

 

河野宗家がその本拠を河野郷から道後湯築へ移したには南北朝末期と言われている。そして河野氏がその地の整備を本格的に進められるようになったのは通直(教通)の代からである。

通直の嗣・通宣は延徳二年に多幸山天徳寺を再建、中興開山として月湖和尚を招き寺領三百貫を与えた。河野氏滅亡後、多幸山天徳寺は加

 また、「他力の舟に法の道」は、「一遍上人語録」の和歌

法の道かちよりゆくはくるしきに

ちかひの舟にのれやもろ人

の要約である。場所が磐城国白河の関近くに設定されているのも、「一遍上人語録」の

奥州御化益の時、白川の関にかゝりて、関の明~の宝殿の柱に書付給ひける

ゆく人を弥陀のちかひにもらさじと

なをこそとむれしら川のせき

の故事に因んだものである。当時の人々は「一遍上人語録」を熟読していたことが知られる。 

藤嘉明により廃絶を免れ、天臨山龍穏寺、江西山天徳寺という二つの寺として近世を迎える。

江西山天徳寺には得能通政、河野通宣、牛福丸通直三者の位牌が残る。

 

二 宝巌寺の再興と遊行上人、松平定直

 

加藤嘉明の参禅道場として再発足した天徳寺であるが、松平家の時代になると天徳寺と松山藩との関係は不安定になる。寛永十二年九月に松山藩主定行は初めて伊予に入部し、亡室・長寿院を祭る長寿院を造営する。現在の法龍寺である。そして同年十二月晦日に天徳寺の寺荘を半減する処置をとった。それに対し時の住職明堂は直ちに退院するという事件が起こる。そうした混迷の時代の天徳寺を支えたのは稲葉氏の菩提寺・月桂寺だった。

江戸時代の遊行上人の伊予回国は明暦、延宝、元禄、正徳、延享、安永、寛政、文政の八回ある。明暦、延宝の当時、宝巌寺は廃寺に近い状況だったようで、上人は石手寺に宿泊している。延宝三年、遊行上人は松平定直に宝巌寺再興を願い出た。それに関係して定直は元禄のころから具体的な動きを見せる。元禄元年、千秋寺を建立、元禄十二年には龍穏寺に僧録を置き、曹洞宗寺院を統括させる。そして元禄十三年には遊行上人回国と合わせ、次の記録が残る。

「・・参詣男女九万四千二百四十一人。この時の散銭四貫四十匁七分五厘・・」

「・・吉例により天徳寺を始め、出雲岡神社内河野七郎左衛門通弘公の霊社へ御参拝。越智郡大三島明神、浮穴郡徳威浮島神社、並に河野霊社及び同郡拝志村別府御墓所等へ役僧を以て御代参・・」盛大な「賦算」や「参詣」の様子が描かれている。八回の回国の中でもこの元禄に行われた盛大な催しは全く異色である。再建を祝った行事であろう。次の正徳の回国の時には初めて宝巌寺を宿舎とした記事が現れる。この記録から上人は河野氏を強く意識していたこと、当時、松山藩は河野関係の社寺参詣を認めていたことなどが確認される。

その翌元禄十四年、定直は天徳寺に霊叟和尚を始めて訪ね、その後は毎年のように天徳寺を訪れ、臨済録などの講義を受け、山門の新築や方丈の修理などを行っている。更に正徳四年には霊叟の出身・久万の光明寺に田地を与えている。光明寺は久万の出家船草家の菩提寺であり、蔵山貴謙は船草家の出身である。

 

三 松山藩の宗教政策の変化 形骸化

 

遊行日鑑には藩との折衝(交流、書簡、口上控など)、諸寺社との交流、賦算、日々の食事など種々描かれている。しかし「元禄」を例外とすると、延享に先立つ「明歴、延宝、正徳」の三回の回国では遊行上人として当然あるべき「寺社参詣、布教活動」が全く語られていないことが注目される。行われなかったのだろうか。参詣や布教を語るには延享の日鑑からである。そこで語られる内容は「延享方式」ともいえるもので、「元禄方式」とは全く様相が異なるものであり注目される。

延享の時、吉田立間村医王寺で「御賦算夥鋪有之」とあり、これが近世伊予での御化益の初出(元禄を除く)である。以下、大洲藩、松山藩、小松藩、西条代官支配地でも化益が行われた。延享方式では化益は全て城下を離れた郡部・松前、和泉、志津川などで、各所数千人の人を集め行われる。延享方式では「河野氏ゆかりの寺社への公式参詣はない。代わりに、元禄方式ではなかった湯築八幡の参詣が行われる。それも、前日下調べをするなど非常に形式ばった参詣を行なっている。越智郡大三島明神への代参もしない。代わりに松山を遠く離れた代官支配地であった三島神社(四国中央市)で朝の出立前、或いは宿に入ってから直ちに、目立たないよう上人が参詣している。この三島神社参詣は「公的な遊行の道中」ではない私的な行為として役人の黙認のもと、繰り返し行われたのである。

元禄で行われた上人の参詣行事がほとんど中止された中で天徳寺、了音寺については、「御先祖御位牌有之候」という理由で、そして藩の役人が全く関与しないという形で代参を派遣する。代参が派遣の件は、天徳寺の河野刑部侍郎通宣の厨子の遺された蔵山の記述で確認できる。

「・・当所了音寺(龍穏寺)、天徳寺ヘ密ゝニ而為墓参、等覚庵被参候、忍故ニ役人中へ無沙汰也、是ハ御先祖御位牌有之候・・」

「亰寺町 冨士屋六兵衛 作 勣時用妙心開山遠忌而上京 宝歴九己卯秋九月新造納天徳寺殿之牌蓋 其資者延享丁卯 藤沢上人行化此邦掩留道后之 介僧納銭一貫文供之 於感公牌前其財逐年而殖焉 以作此龕護神牌 住持蔵山宗勣誌  代銀五十銭目也」

「延享方式」はその後幕末まで続く。こうした「元禄方式」、「宗教活動の記録がない正徳方式」、「延享方式」があることは、藩と遊行上人の間はかなり緊張した関係であったこと、遊行の進め方には藩から強い規制があったこと、藩同士横の連携があったことを物語る。

文政の時、伊予では洪水があり、志津川からの桜三里越えは変更され、松山から海岸側を通り今治藩を通過することになった。急遽設定されたのは城下を離れた早砂川の御野立での小休止および国分寺での昼の接待と賦算だけである。早砂川では群集参集はあるが賦算はなかったようである。別宮大山祇神社への参詣などもない。御泊は松山藩管轄の壬生川である。上人接待に伴う今治藩の負担を抑えるための松山藩側の配慮が窺われる。

 

四 破綻

宝巌寺の再建も定直によってなされ、延享には上人の化益・賦算、寺社への参詣に関する藩との間の取り決めができた。安永には本堂の修造が行われた。全焼した本堂はこの時ものである。「湯築城の廃材・・」を貰って造られたというご住職の話はこの時のことであろう。無論、二百年前の河野時代の城の廃材ではありえない。廃城を管理するために造られた「門・柵」の事であろう。

以上のような経緯で再興された宝巌寺であるが、この寺は元来檀家、末寺が少なくその経営は難しい状況が続いたようである。寺は藩から頂いた祠堂米弐百俵を御郡方へ預け、毎年その利米を戴いていた。当時、松山藩も恒常的な財政難に苦しんでいた。安永三年、その中で利米が減るのは止むを得ないが今後とも利米を戴きたいという支配代官宛の嘆願が出されている。

更に上人側は「宝巌寺寺格」をあげてくれるよう嘆願している。それに対し藩は苦慮したようだが、結局二年後の安永五年には「・・上人のたっての御頼であるから・・」「中書院礼式」の寺格にするという返答を出している。ところがその六年後の天明二年正月に「・・寺格の件はなかったことにする・・」という通達が藩から藤沢の上人側へ送られてきた。遊行上人の権威を無視した一方的な通告であるが、上人側はそれを受け入れ、その経緯を後世に「かがみ」として遺し、藩と遊行上人との間にトラブルが起きないようにするためにその経緯を「日鑑」に書き残した。

遊行上人が藩からこのような厳しい通告を受けた丁度その頃、「松山藩の御番頭稲川八左衛門(秘事録)」、「松山・天徳寺(天徳寺資料)」にも厳しいお咎めがあった。

天明二年正月頃、御番頭が閉居の処罰を受けた。「御番頭」は、家老、中老に次ぎ、御奉行の上に立つ重職である。

定直の時以来、藩と非常に親密な関係を維持してきた天徳寺であるが、上人や御番頭の件があってから数か月後の天明二年五月、蔵山和尚は突然隠居を命じられた。寛永二年に明堂が藩主と衝突し自ら退院した事例はあるが、こうした命令は前例がない。蔵山は藩と交渉を進めていた「庫厨新建」の件が命令の理由と理解している。蔵山隠居した後、澤瑞が住持となるが彼も就任三年後、天明四年には寺を追われ、住持であった記録までも抹殺される。澤瑞は藩及び本山・妙心寺の承認をえて入院した人物であり、何の責任を執らされたのかは定かでない。このように御奉行、宝巌寺、天徳寺になされた処断の決定には、安永八年に松山藩を継承し、この事件の直前・天明元年五月にお国入りした松平定国(寛政の改革を主導した松平定信の実兄)の意向が強く働いていたと思われる。朱子学に親しんだ定国は遊行上人や蔵山には批判的だったのであろう。定直以来続いてきた藩と天徳寺の間の親密な関係も突然失われた。

 「宝巌寺寺格」の儀は挫折したが、遊行上人の宝巌寺に対する支援はその後も続いた。

記録に残る最後の回国でもまた、末寺が一つしかない宝巌寺の行末を案じた遊行上人からは次のような口上が御家老中へ出された。

「宿坊宝巌寺儀・・中古廃寺同様ニ相成・・・御領内門末有之儀ニも唯一ヶ寺ニが座候へハ、行末衰微退転ニも相成候ハゝ、外実共ニ心外之至御座候・・・格別之以御憐憫宜御沙汰被下度頼入存候」                      (完)